『戦争論』われわれの内にひそむ女神ベローナ〜ロジェ・カイヨワ著。「人間にとって戦争とは何か?」「人間は戦争とどう向き合うべきか?」NHK番組100分de名著全4回を通して観ました。

少し内容を要約してみます…。

・リアルな殺し合い、生身の肉が傷つく、そのような面を体現する副題の女神ベローナ。

・戦争そのものの研究ではなく、戦争が人間と心と精神とを如何にひきつけ恍惚とさせるかを研究したものであった。

・人類が文明の果てにこういう戦争にいきついた、そもそも人間の中に戦争へと向かう傾きがあるのではないか?と、想定して振り返ってみる。

・人間の聖なるもの、祭りや遊びと同じように戦争はある。近代の合理的な考え方では捉えられないものが、表向き合理的な人間社会の結びつきの根本にある。

・全てのものが生産を原理に組み立てられているが、いつか飽和してパンクする。それで遊びや祭りが社会を調整している。

・呑み込まれる戦争の暴力性への傾きを、どうやって差し止めるか?考えること自体が最初のブレーキになる。

・人間により構成された社会が、組織的に兵器という道具を用いて、敵の人間の命や所有物を破壊することが戦争。戦争とは、単なる武力闘争ではなく、破壊のための組織的企てある。

・戦争は平和の産物、とはいえ、戦争は文明を表出している。戦争は影のように文明につきまとい、文明と共に成長する。戦争は文明が発達すればするほど、野蛮で破滅的になる。

・戦争形態の変遷→仝胸賄戦争貴族戦争9駝雲鐐茵F辰豊□への移行にて、民主主義が戦争をまん延させる担い手を圧倒的に広げる。国家の意思にしたがって、民主主義社会では戦争が全般化してしまう。

・全体戦争とは、第一に戦闘員の数が動員可能な成年男子の数に接近する、ということを意味する。第二にそれはそこに使用される軍需品の量が、その交戦国の工業力を最大限に働かせたときの生産量と等しい、ということを意味する。

・つまるところ戦争は、規格化された大量生産を促進することとなった。大量生産が順調に行われるためには、大量破壊がなくてはならない。組織的破壊こそは、新規需要の最大の保証である。

・何の目立つところもなく、生きては長蛇の兵列の中にあって、見分けることもできない一兵士にとどまり、死しては死肉の山の中に見分けもつかなぬ肉片となった。これら無名兵士の栄光は、武功に対して与えられたあらゆる名誉や世にも稀なる諸徳に与えられたあらゆる名誉にもまして、光り輝くものであった。

・熱意を盛り立て維持するために、機械的な手段も用いられた。戦闘と同じ雰囲気をつくって、絶対服従と無条件奉仕の精神を養おうとするものである。この期においては、軍隊はもはや単に国土を護る道具ではない。それは国民の最高の表現であり、国民再生の至高の原則となったのである。

・戦争と祭りとは二つとも、騒乱と動揺の時期であり、多数の群衆が集まって、蓄積経済のかわりに浪費経済を行なう時期である。戦争と祭りは、平常の規範を一時中断することであり、真なる力の噴出であって、同時にまた、老朽化という不可避な現象を防ぐための唯一の手段である。

・祭りと戦争の違いはむしろ、祭りがその本質において、人びとの集まり合体しようという意志であるという点にある。祭りにおいて人は互いに高揚興奮させるが、戦争においては人は相手を打ち負かしてこれを服従させようとする。

・核兵器という遠距離まで届く大量殺戮の道具は、抗争を全地球的規模に拡大する役を果たした。このような条件の下では、戦争は国民という枠をはみ出してしまう。

・物事をその基本において捉えること、すなわち、人間の問題として、いいかえれば人間の教育から始めることが必要である。とはいうものの、このような遅々とした歩みにより、あの急速に進んでゆく絶対戦争を追い越さねばならぬのかと思うと、わたくしは恐怖から抜け出すことができないのだ。

…結局、解決策は?と言いたくなるのですが、もう核兵器を人間の頭から切り離すことはできないので、本当に難しい問題です。つまり、今このときも平時も戦時の境がない、日本においてもウクライナと同じことが起こっても何ら不思議でないってこと。信じたくない認めたくないのですが、真摯に受け止めたいと思います。がんばります!ではっ!