100分de名著ヘーゲル「精神現象学」観ました。これは面白かったです。対立と分断と否定とどう付き合うのか?どうやって自由を失うことなく意見の違う他者と協力して自由な社会を作っていけるのか?承認論、大きなテーマだと思います。

印象的な部分をピックアップします…

弁証法的な運動を、意識は自分自身にそくして、自らの知に関しても、その対象を巡っても遂行する。この運動が、そこから意識にとって新たな真の対象が出現する限り、本来の経験と呼ばれるものに他ならない。→動物的な態度

自己意識→新しい自立の概念→アウフハーベン’亡する∧飮する9發持ち上げる→自立とセットで依存がある→真理に近づくためには失敗しながら学ぶこと

精神とは何か?絶対的な実体である精神とはすなわち、私たちである私であり、私である私たちなのである。

規範と一心同体の状態から離れていくことを疎外という。それを実現するために教養が必要である。その際、二つの矛盾したことと直面する、国権と財富。

論破とは?当時はエスプリに富んだ会話のこと。固定されているものの一切が解体し、全ての契機を通じて、その契機が世界が現に存在していることに関わる限りで引き裂かれ、骨という骨に至るまで打ち砕かれているという感情である。

どうやって疑うと同時に新しいルールや価値観を固定化していくことができるのか?

啓蒙と信仰の戦い。信仰とは純粋な洞察にとって一般に、迷信と先入見と誤謬とによって織りあげられたものである。誤った洞察は、背後に自分だけで留まっている洞察であって、そこには悪しき意図がある。この背後の洞察と悪しき意図によって、大衆の意識は欺かれているのである。

近代での善悪の基準は自分にとって役に立つかどうか。啓蒙→有用性→絶対的自由→テロル。

啓蒙に足りない薔薇?法の哲学にて。ここにローズがある、ここで踊れ、理性を現在の十字架における薔薇として認識し、それによって現在を喜ぶこと。この理性的な洞察こそ、哲学が人々に得させる現実との和解である。

道徳的世界観、カントの定言命法→嘘をつくな等とは異なる。では死刑制度は?対話的な道徳論。他者から評価をしてもらわなければならない。

相互承認、赦しとは自身を断念し、自らの非現実な本質を捨て去ることであって、この本質の傍らに、後者の意識は問題の他者を「こちらが現実的に行為することであったのだ」同等のものとして定位し、思想にあって行為することがまとう規定からすれば、悪と名ざされていたものを、「善」として承認する。

ピックアップはここまで〜ですけど、とりわけ印象的だったのは、共にかわっていこうとする、承認を繰り返すこと。でも、これはダメージを受けるし、常に間違っているかもしれない?との問いかけは必要になると思います。いやはや、勉強になりました。がんばります!ではっ!